いとうちひろのエッセイ「ニッポンの会社今昔物語」

派遣社員は歯が命

 昨年の夏の事、リゾート気分をちょっとでも味わいたいと妹と日光へ出掛けました。
  とはいっても所詮はビンボー2人旅。せめて食事だけでもゴージャスにと『3時のおやつ』に由緒ある某一流旅館へ出向きました。創業100年以上というこの旅館は、特に自家製パンが特筆モノと聞き及んでいましたので、私達は喫茶室に入ると迷わず『ホットサンド』を注文しました。
  これがまた美味しい!周りのパンはカリカリ中はアツアツで、もう絶品!妹とホクホクしながらパクついていると、不意に『ガリッ』と、何やら硬い物が歯に当たりました。「?」と思いながら出してみると何とそれは 『歯』。しかも詰め物ではなく自前の・・・。
「歯が欠けた・・・。」
ボーゼンとしながら呟いた私に、妹は
「詰め物のが取れたんでしょ?」
と慰めてくれましたが、どこからどう見てもこれは自分の歯。しかも虫歯にもなった形跡すらありません。虫歯でもない歯が欠けるなんて・・・、しかもホットサンドで・・・!
  折角の旅行ももう台無しです。私はヌケガラ状態のまま帰途についたのでした。
  翌日、私は実家近くの子供の頃から通っている歯科医に、取れた「歯」持参で赴きました。先生に事情を話すと、
「ああ、パンの耳食べたんでしょう?パンの耳は繊維がギュッと詰まっているから、歯が欠けやすいんですよ。」
と、優しく答えてくれました。
「実は僕もそれで歯が欠けちゃってね。パンの耳、美味しいもんねえ。ハッハッハ!」
と笑いながら指差した先には、キラキラ輝く金歯が覗いていました。 
「欠けちゃったところは、少し削って被せましょう。虫歯にもなっていないし、スグすみますよ・・・ん?」
  さっきまでのショックはどこへやら。『パンの耳で歯が欠けるのは変じゃない』事に安堵してだらしなく口を開けていた私は、最後の「ん?」を聞き逃しており、話し続ける先生の言う事をよく聞きもせず頷いていました。そして、先生の
「ホントに全部抜いちゃっていいの?」
という言葉に、やっと我に返ったのです。
「あ?(抜くって何を?)」
目が点になって先生を見つめると、先生はもう一度
「虫歯の親不知は1本だけだけど、ホントに3本全部抜いちゃうの?」
と、念を押してきました。どうやら私は、『残った親不知を全部抜くかどうか』と聞かれていたのに、相変わらずヘラヘラ笑いながら頷いていたらしいのです。欠けた歯を被せるだけのつもりが、いつのまにか歯を3本も抜く話にまでなっていたなんて・・・。思わぬ展開に固まったままの私に、先生は続けました。
「まあ、あなたは大雑把だから、残しといても虫歯にしちゃうだろうし、ひと思いに抜いちゃった方がいいかもしれないね。」
「・・・ハヒ、ホヘハヒヒハフ。(ハイ、オ願イシマス)」
  既に2本の親知らずを虫歯にしてしまった私に、反論する余地はありませんでした。
  さて、欠けた部分の治療が終わると、さっそく虫歯になっている親不知の抜歯をすることになりました。抜歯を翌日に控えた日の夕方、友人と話していて、
「親不知を抜くことになった。」
という話をしたら、
「歯茎からの出血が止まらなくなったら、紅茶のティーバッグが効くらしいよ。」
と教えてくれました。何でも、
「以前に抜歯して出血が止まらなくて困った時、おばあちゃんに言われてティーバックを出血している部分に押当てるようにして噛んだら、血がブヨブヨになって止まったの。止血する成分は『タンニン』と言って、殺菌作用もあるらしいよ。」
ということでした。
「ティーバッグは出涸らしにしておかないと、噛んでる間に味がでてきて、苦くて余計辛いよ。」
とも助言してもらい、早速近所のコンビニで紅茶のティーバックを購入しました。
  翌朝、事前のレントゲンでは抜くのはそれほど難しくない筈とのことでしたが、『蚤の心臓に毛が生えている』程度の度胸しかない私は、朝から緊張しっぱなしで歯医者に向かいました。
  待合室で女性週刊誌をパラパラめくっていても、ちっとも読むことができず、やがて名前が呼ばれ診察台に上がり、覚悟を決めて口を開けました。
「ちょっと痛いよ〜。」
という先生の声に(イヨイヨだわ!)と身を硬くすると、
「大丈夫、まだ麻酔だよ。抜歯はこれから。ハハハ。」
と先生は余裕で(当たり前か)笑っています。
(先生、でも、麻酔もとってもイタイですぅ〜・・・うう・・・。)
という声にならない声を発しつつ、遂にその時はやってきたのでした。
  何年か前に一度親不知の抜歯しているのにも関わらず、嫌なことはすぐ忘却の彼方へ行ってしまう私は、歯を抜くといったら ペンチなんか出てきちゃうのかと思っていましたが、取り出して来たのはドライバーの様な棒でした。(見なきゃ良かった・・・。)と激しく後悔しつつ、ギュッと目をつぶりました。
  先生が、その棒らしきものを口の中に入れしばらくすると、『メリメリメリ・・・』という音がして(イ、イヤ〜!)、ボロっと物が落ちる感じがしました。
「さあ、安心して〜、もう終わったよ〜。」
  この間実に1分位。まさに、「あっ」という間の出来事。脱脂綿をしばらく噛み続けて止血し、最後に抗生剤をチョイチョイと塗っておしまいでした。
  麻酔が効いているので舌の感覚もなく、歯でハミハミして遊んでいると、
「舌の感覚がないからって、舌を噛んで怪我する子供(!)が 時々いるんだよね。大丈夫だとは思うけど、一応気を付けてね。」
「ハッ、ハヒ・・・(先生、今、まさに・・・。)。」
  さすがは幼い頃から私の治療をしているだけの事はあります。何もかもお見通しなのでありました。その後、痛み止め2回分をもらって帰宅。痛み止めは飲みきったけれど、大出血することも腫れることもなく、1週間後に2本目の抜歯となりました。
  下の歯は抜くのが大変という噂を聞いていたので、やはり緊張していたのですが、これも拍子抜けする程アッサリと抜けて、せっかく準備した紅茶のパックは登場する場もないまま(ガッカリしてどうする)、とうとう最後の一本だけとなったのでした。
  これまでの2本の抜歯が思いのほか楽だったので、すっかり気の大きくなった私は、待合室で女性週刊誌の死去の記事を読みふけり、うっかり名前を呼ばれたのにも気付かないほどの余裕ぶりでした(この辺が蚤の心臓の『毛』の部分にあたるワケです)。
  3度目に名前を呼ばれやっと気付いた私は、元気に返事をするとにこやかに診察台に上がりました。
「さあいよいよ最後の一本だね。今日は今迄みたいにはいかないかもしれないよ〜。」
「え?」
「歯が大きすぎるんだよ。ちょっと切らないといけないな〜。」
(・・・き、切る?・・・)♪チャリラ〜・・・♪一瞬にして頭の中を『必殺シリーズ』の音楽が駆け巡り、中村主水がブスリッと悪人を切り刻む光景が頭に浮びましたが、かろうじて平静を装い続けました。
「う〜ん、やっぱり切らないとダメか・・・、メスちょうだい。」
頭の中では、仕事人達が悪人を殺しまくっている場面がぐるぐる回り続け、ちょうど殺しが佳境に入った頃(主水が登場するちょっと前位か?!)、
「ペンチちょうだい。」
(ぺ、ぺ、ぺ、ぺ、ペンチ!)とうとう恐れていた『ペンチ』の御登場です。(見てみたい!)という好奇心に危うく負けてしまい そうになりましたが、仕事人の仕事のレパートリーが増えるだけなので、必死で我慢して目をつぶっていました。
『メリメリメリ・・・。』 という音に同調するように頭がグラグラ動き、先生の
「ヨイショッと。」
という声と共にどうやら抜歯は終わったようでした。
「もう終わったからね〜。あと縫うだけだから安心してね」
(・・・ああ、もう何とでもして・・・)等と痺れた頭で考えつつ、ボーっとした状態のまま、傷口は縫合、止血処理へと進んで、すべての作業は終了したのでした。
「顔が腫れちゃったとか、明後日になっても口が開きにくいとか(←オイオイ)、そういうことがあったら、スグ来てくださいね。」
と言いながら、先生は3日分の化膿止めと2回分の痛み止めをくれました。
(2回分じゃ、絶対足りない・・・。)と思いながらも、もうしゃべるの億劫だったので、
「ハリアホウゴガイマヒハ(ありがとうございました)」
とだけ言って帰ってきてしまったのですが、これが大失敗。腫れもしないし、出血も特にないけれど、とにかく痛いんです。それはもう、痛み止めの薬効が切れる瞬間がキッチリ分かるほど痛かったのです。それまで全然痛くないのに、
「ん?・・・キタキタキタキタ〜ッ!。ウ、ウォ〜ッ!痛イ、痛イ、痛イ〜ッ!!」
という具合に、キッチリ6時間毎に痛みがきて、最初の2日間位は夜中にも目が覚めるほどでした。
  当然貰ってきた痛み止めでは足りる筈がなく、買い置きの鎮痛剤24錠入りを全部飲みつくした頃、やっと歯茎痛は遠ざかっていったのでした。
  こんな大変な思いをしながら、一週間後に歯医者さんで経過を見てもらうと、
「う〜ん。キレイに付いてるね。大丈夫、大丈夫」
との事だったので、ただ単に私が痛がりなだけだったのかもしれません。
  皆さん、くれぐれも『歯』は大切に!
  万が一、歯を抜かなきゃならなくなった時には、紅茶のティーバックと、頭痛薬を一箱準備することを、くれぐれもお忘れなきよう・・・。

次号は1月1日に公開予定です。

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